1 事案の概要
本件は、X(植村隆氏)(控訴人・原告)がいわゆる従軍慰安婦問題に関してA新聞に掲載した2本の記事(以下「原告記事A・B」といいます)をめぐり、被控訴人Y(大学教授)が論文やウェブサイトの投稿で、原告記事A・Bは「捏造」であるなどと批判したほか、被控訴人会社(出版社)が発行する週刊誌においても、被控訴人Yによる同趣旨の発言を含む記事が2本掲載されました。その結果、Xの社会的評価が低下した(名誉毀損)、さらにはXの名誉感情、プライバシー、平穏な生活を営む法的利益が侵害されたとして、Xが(1)Yのウェブサイト投稿記事の削除、(2)謝罪広告の掲載、(3)損害賠償金(慰謝料・弁護士費用等)の支払を求めたものです。
第一審・東京地方裁判所(令和元年6月26日判決)は、Xの各請求をすべて棄却し、Xが控訴しました。しかし、東京高等裁判所(令和2年3月3日判決)も同様に控訴を棄却しました。
2 第一審判決(東京地裁)の要旨
(1) 名誉毀損該当性(争点1)
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被告(Y)による各論文・投稿の表現
被告Yは、原告記事A・Bについて「Xは元慰安婦Zがキーセンに身売りされた点を知りながらあえて記載せず、さらに義母(遺族会幹部)の裁判を有利にするため意図的に事実を捏造した」という事実を摘示し、そのうえでXの行為が悪質だと論評しました。これによりXの社会的評価が低下するため、名誉毀損に当たると判断されました。 -
被告会社による週刊誌記事の表現
被告会社が掲載した記事(うち一つはYの発言を含む)も、Xが「女子挺身隊の名で戦場に連行された」と虚偽の報道を行ったなどの事実を示しており、Xの社会的評価を低下させるため、名誉毀損に当たるとされました。
(2) 違法性阻却(争点2)
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一方で、これらの表現は公共の利害に係るものであり、専ら公益を図る目的でなされたと認められました。さらに、被告らが摘示する事実の重要部分については、それが真実である(または真実と信じるにつき相当の理由がある)と証明されているため、被告Yおよび被告会社には免責が成立するとされました。
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Xは「Zのキーセン売買や義母の裁判への関与をあえて隠していない」などと主張しましたが、裁判所は、被告Yが参考とした資料(Zが記者会見で語った韓国紙報道、訴状など)によって「被告Yが上記事実を真実と信じるのには十分な根拠がある」と判断しました。
(3) 平穏な生活を営む法的利益等の侵害(争点3)
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Xは、被告会社の週刊誌記事が原因で大学就職先への抗議が相次ぎ、就職取り消しや大学勤務に困難を来し、平穏な生活を営む利益が侵害されたと主張しました。しかし、裁判所は、記事の目的を「Xの大学教員としての適格性を社会に問う」点と捉え、記事自体に違法なプライバシー侵害や扇動行為はなく、平穏な生活を営む利益を違法に侵害したとはいえないと判断しました。
結論として、第一審判決はXの請求をいずれも棄却しました。
3 控訴審判決(東京高裁)の要旨
(1) 控訴審の事実関係・補正
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控訴審では、地裁判決の事実認定を一部補足・修正しつつ、X側の新たな主張として、「平成3年11月にZから直接聞き取りをした際の証言テープ(令和元年になって発見)にはキーセンなどの経緯が一切出てこない以上、自分が事実を隠蔽したわけではない」旨が提出されました。
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しかし、高裁は、このテープがZの証言内容すべてを収録したとは認められず、ほかの資料(韓国紙・訴状・支援者の論文など)と照合すると、「被告Yが『Xはキーセン売買を知りながらあえて書かなかった』と推測したことには相当の理由がある」と認定し、この点を覆すには至らないと判断しました。
(2) 名誉毀損の成立と違法性阻却
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高裁も第一審と同様に、「被告Y・被告会社による各記述はXの社会的評価を低下させるから名誉毀損に該当する」としつつも、いずれも公共性・公益目的を有し、かつ「Zがキーセンに身売りされたという点をXが知っていた」「Xが強制連行の印象を与える報道をした」という重要部分については、被告らが真実もしくは真実と信ずるにつき相当の理由を有していたと認めました。
(3) 平穏な生活を営む利益侵害の成否
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被告会社による週刊誌記事が「Xを社会的に排除しよう」という扇動性のある行為とは認められず、仮に大学等へ多数の抗議・脅迫が発生したとしても、それ自体は不当な第三者行為であり、被告会社の責任とはいえないと結論づけました。
その結果、高裁も第一審判決を支持し、控訴を棄却しました。
4 検討とまとめ
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名誉毀損の該当性
Xの記事(原告記事A・B)について被告らが「捏造」と言及したことは、一般の読者に「Xが意図的に虚偽報道をした」との印象を与えるものであり、名誉毀損としての成立は肯定されました。一方で、「捏造」との表現が意見・論評の次元にとどまるのか、事実の摘示かどうかは、表現全体の文脈から判断すべきとされ、本件でも「事実摘示が含まれる」と判断されました。 -
違法性・責任阻却要件
判例法理(最高裁昭和41年6月23日判決等)によれば、①公共の利害に関わる事実、②専ら公益を図る目的、③真実性あるいは真実と信ずるにつき相当の理由が認められるとき、名誉毀損は違法性又は責任を免れるとされています。本件では、従軍慰安婦問題が広く社会的・国際的な関心事であったことから公共性・公益目的を肯定し、また、被告Yらが参照した諸資料等により「Xがキーセン売買の事実を知っていた可能性」を示唆していた点を踏まえ、真実相当性を肯定しました。 -
平穏な生活を営む利益の侵害
判決は、「原告記事A・Bが捏造である」との批判自体が、Xの就職先や勤務先への悪質な抗議を直接扇動したとはいえず、記事の目的は「Xの大学教員としての適格性を問題提起する」など正当な公共性に基づく言論行為であったと判断して、不法行為を否定しました。 -
全体的評価
本件二審判決は、いわゆる「従軍慰安婦問題」をめぐる報道・表現行為と名誉毀損の相克について、既存の判例法理(公共性・公益目的・真実性/真実相当性など)を確認し、個別具体的に適用したにとどまるものです。特に、被告Yが批判した背景にはA新聞社の長期的な報道姿勢への社会的関心がある点を踏まえ、一定の参考事例として位置付けられるでしょう。
真実性・真実相当性の判断をめぐる詳細
1. 判例法理のおさらい
名誉毀損に関する判例(最高裁昭和41年6月23日判決,昭和56年10月20日判決,平成9年9月9日判決など)によりますと,公共の利害に関する事実につき,専ら公益を図る目的で表現行為がなされた場合に,次の二つの要件(いずれか)が満たされるとき,違法性や責任が阻却されるとされています。
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摘示された事実が重要な部分について真実であることの証明
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上記事実を真実であると信ずるにつき相当の理由があること(いわゆる真実相当性)
ここでいう「真実性」とは,「実際に生じた客観的事実と合致している」と証明できることをいいます。また,「真実相当性」とは,「表現行為者が事実と信じたことについて,相応に裏付けるだけの取材・根拠資料・論拠が存在していたか」を問い,その合理的な裏付けがあれば「真実らしいと信じるのもやむを得ない」と認める考え方です。
2. 第一審・控訴審の具体的検討
(1) 被告Yの論文や週刊誌の摘示事実
被告Yは,原告記事A・Bを書いたXが,「元慰安婦Zがキーセンに身売りされたことを知りつつあえて記載せず,さらに義母が関係する裁判を有利にするため事実と異なる記事を意図的に書いた」という趣旨を繰り返し主張しました。名誉毀損としては,これらの“摘示事実”が「真実か,あるいは真実であると信じるについて相当の理由があるか」が判断されることになります。
(2) 「真実性」の観点
裁判所は,たとえば「Zがキーセンに身売りされた」「Xはこれを知りながら書かなかった」などの点について,厳密な意味でそれが100%客観的事実(真実)といえるかどうかを検討しました。
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結論としては,「Xがキーセン売買の事実を完全に把握していた」とまでは断定しきれない部分もあり,「Yの主張する事実が100%立証されたとはいいがたい」旨が判示されています。
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もっとも,X自身が「当時Zがだまされて慰安婦になったと聞いた」という取材メモを持っていたり,韓国各紙(ハンギョレ新聞など)でZのキーセン・人身売買の報道があったことも認められており,裁判所としては「Zのキーセン売買をうかがわせる有力な情報自体は当時からあった」と評価しました。
結果として,本件ではこの「真実性」自体は,「被告Yの摘示する事実が,細部まで真正な“客観的事実”と確認しうるところまではいかない」との判断を下しました。
(3) 「真実相当性」の観点
そこで,裁判所がさらに問題にしたのが,「被告Yがそう信じるについて相当な理由があったか」という真実相当性です。ここで裁判所は,被告Yが論文を執筆する際に参考にした資料の内容や被告Y自身の取材状況などを詳しく検討しています。
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具体的な資料例
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韓国紙の報道:Zが「14歳でキーセン検番に売られた」「義父が関与して人身売買された」などとする記事
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訴状:Zを含む原告らが「キーセン学校に通っていた」「養父に連れられた」と主張する内容
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関連する雑誌・書籍:同様の経緯を示す論文や支援団体のレポートなど
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裁判所の評価
これらの記事・資料を総合すると,被告Yが「Zにはキーセン身売りの経歴がある」と信じるのは合理的であり,また「Xはそうした事実を認識していたのに書かなかった(あるいは書けたはず)」と被告Yが疑うことにも相応の根拠がある,と判断されました。
つまり,Yが「Xが事実を隠したのではないか」と信じることには,一定の裏付けがあったとみなされたわけです。
(4) 裁判所の結論
真実性そのもの(被告Yの主張が事実そのものと完全に一致するか)については,必ずしも全面的に立証されているとはいえないものの,Yによる認識や資料に基づく推論には相応の理由があり,「真実と信じるについて相当な理由がある」と認められました。その結果,被告Yには過失が否定され,いわゆる免責が認められています。
3. 真実相当性をめぐるポイント
(1) 裏付け調査や取材資料の存在
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裁判所は,Yが複数の韓国紙や訴状,さらには関連論文を参照していることを重視しました。とりわけ,「第三者が実名・時期を明示して報じている」点が,単なる風評や伝聞ではなく,Xの「事実隠し」を疑う手掛かりとしては一定の合理性があるとみなされたのです。
(2) 表現者側の注意義務
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真実相当性の判断では,「表現者がどれだけ慎重に裏付けをとったか」が問われます。本件では,Y自身が過去に原告記事を批判する論考を繰り返し発表しており,その際に裏付けた資料がある程度明示されていた点も考慮されました。
(3) X側の主張との食い違い
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Xは,「キーセンの事実など知らなかった」「Z自身が強制連行を語っていた」と主張しました。しかし,テープやメモの全部が残っているわけではない状況で,韓国紙などの外部資料と内容が食い違う部分があることも考慮され,最終的に裁判所はXの反論よりも被告Yが示した根拠の相当性を優先したのです。
4. まとめ
本件では,被告Yの表現行為が「名誉毀損」に該当することをまず認めつつも,(1) 公共の利害に関する事実であり,(2) 公益目的があることを前提としたうえで,「Zのキーセン身売りをXが認識していたか」などに関するY側の事実摘示につき,真実性の証明こそ不十分な部分があっても,真実と信じる相当な理由があると判断され,結果として被告Yには違法性や責任が否定されました。
このように名誉毀損訴訟における真実性・真実相当性の判断は,「どの程度の調査や根拠資料があれば,表現者がこうした事実関係を信じてもやむを得ないか」という観点を中心に行われます。本件判決は,いわゆる従軍慰安婦問題に関する膨大な報道や訴訟資料が存在するなかで,被告Yがそれらをどう評価して「Xの記事は事実を隠蔽した」と批判したか,その手順・裏付けの合理性を認めたといえます。