
以下の解説ブログは、東京地裁平成2年1月30日判決・判例タイムズ730号140頁を題材として、「名誉毀損における事実の証明」と「言論の応酬による正当な反論」などがどのように判断されるかを整理しつつ、まとめたものです。
はじめに
本件は、美容整形医としてメディア出演していたX(原告/被告)とY(原告/被告)とのあいだで、「異物注入法」の是非をめぐり激しい対立が生じ、さらにこれに関連してテレビ番組・週刊誌等で多数の発言が飛び交った結果、互いに名誉毀損を主張して損害賠償請求訴訟にまで発展した事案です。加えて、Yの手術を受けたと主張するZも一方の当事者となり、それぞれが「甲事件」「乙事件」「丙事件」として争われました。
判決文を見ると、テレビ番組における発言や週刊誌上でのインタビュー記事などを介して当事者同士が互いに名誉を毀損しあったかどうか、そして仮に名誉を毀損するとしても「公共の利害に関する事実」「専ら公益を図る目的」「真実性の証明または相当理由」などの要件を満たすことで違法性が阻却されるかが、中心的争点となっています。本稿では、事案の概要や裁判所の判断構造を整理し、名誉毀損の法理や言論の応酬に関する判断枠組みの意義を探ってみたいと思います。
1.事案の背景
(1)「異物注入法」をめぐるあつれき
XとYはいずれも美容整形医として名の知れた存在でした。ところが、Yは「異物注入法」と呼ばれる整形手術(シリコン液などを患者の体内に注入する美容整形)を積極的に行い、マスコミなどで「安全で効果がある」と宣伝していた一方、Xはこの手法について医学的にも大きなリスクがあるものだと考え、強く批判していました。実際、昭和40年代にはワセリンやパラフィン、シリコン液を用いた豊乳術等に関して死亡例や後遺障害が報告されるなど、「異物注入法」には危険があるとの指摘も複数存在していたのです。しかし、当時の学説や公的規制は必ずしも「全面的禁止」が確立していたわけではありませんでした。
(2)テレビ番組への出演
XとYは、以前にもテレビ番組で同席し、Yの行う「異物注入法」の是非について公開の場で対立していました。そこでX側は「少なくとも美容目的での異物注入は、患者の身体に重大なリスクをもたらす」と批判し、Yは「海外の有名医から学んだ実績ある技術であり、安全な手法を取っている」と反論する構図でした。
その後、あるテレビ番組(判決文上は「モーニングショー」)にて「Yの施術で被害を受けた」と主張する患者3名が顔を隠す形で出演し、そこに医学的批判を加える専門家としてXが登場しました。番組は「告発特集」のような構成で放映され、Yがあたかも“悪徳医”であるかの印象を視聴者に与えかねない内容でした。
(3)週刊誌・新聞へのコメント合戦
このテレビ放送後、Yは「番組は陰謀であり、仕掛け人はXである」「出演した被害者はXが送り込んだ“スパイ”」といった趣旨のコメントを新聞・週刊誌に続々と発表。一方Xも「危険な手術を営利目的で続けるのは倫理違反」「私の医院にはYで失敗した患者が多数来ている」と反論し、当事者間でメディアを利用した非難合戦となりました。こうした相互の発言が名誉毀損にあたるとして、互いに損害賠償を請求するに至ったのです。
また、Zは「Yによる豊乳術・しわ取り手術の後遺障害で精神的苦痛を被った」として乙事件を提起しましたが、最終的には「Zが本当にYの患者であったか」という点の立証が不十分として棄却されました。
2.争点と裁判所の整理
本件では、主として下記の論点が主要な争点となっています。
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X・Zがテレビ番組で摘示したYの治療内容等の事実は、名誉毀損にあたるか。
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公共性(公共の利害に係る事項)
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「専ら公益を図る目的」を満たすか
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内容が真実(または真実相当性)か
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Yが週刊誌等で反論として述べた「番組は陰謀」「被害者は仕込まれたスパイ」等の発言は、名誉毀損にあたるか。
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正当な反論として違法性が阻却されるか(言論の応酬)
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必要な限度を超えていないか
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Zの主張する後遺障害や診療契約上の債務不履行(乙事件)は認められるか。
判決文はまず背景事情として、「異物注入法」に関する日本国内および米国での文献・規制状況を相当詳細に検討し、昭和52年当時において同手術が「絶対的に禁止されるべきとの定説が確立していたわけではなく、公的機関が特段の規制を敷いていたわけでもなかった」と指摘します。これにより、Yが同手術を続けること自体をもって即座に非常識と断じることは難しかったと示唆しています。
3.名誉毀損の成立要件と違法性阻却
民法上の名誉毀損が成立するためには、(1)相手方の名誉を低下させるに足る事実を摘示し、(2)それが公然と示され、(3)故意・過失があることが必要です。もっとも、刑法230条の2や判例実務において、たとえ名誉を毀損する表現であっても
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(a)公共の利害に関する事実であること
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(b)専ら公益を図る目的であること
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(c)内容の真実性(または真実であると信じる相当の理由)があること
といった要件を満たせば「違法性(あるいは責任)が阻却」される(民法上の不法行為も成立しない)と整理されています。これがいわゆる「事実の証明による名誉毀損の違法性阻却要件」(あるいは真実相当性)です。
(1)X・Z側の摘示内容:公共の利害かつ公益目的か?
裁判所は、Xがテレビ番組でYを強く非難した発言や週刊誌でのコメントについて、確かに「医師の治療方針や技量、モラルにかかわる話題」であり公共の利害に係る面はあるとしました。しかし「専ら公益を図る目的」といえるかどうか、さらに「真実性や真実相当性」が証明されるかが問題とされたのです。
結論としては、
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番組に出た「Yの被害者3名」のうち2名が本当にYの患者だったかどうかすら不明瞭(カルテ確認や領収書等の裏付け資料が乏しい)
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Xも、報道機関の依頼を受けただけで十分な客観的調査を経ていなかった
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その結果、Xの番組発言・週刊誌発言は「内容の真実性が証明されず、または真実相当性を信じるだけの裏付けも認められない」という理由で、違法性阻却されない(名誉毀損が成立する)
と判断されたのです。加えて、Xの発言には「Yはとにかく患者に対してあくどい商売をしている」など、個人的中傷とみられる表現も含まれ、「専ら公共の利益を図る目的」だったとは認め難いとされています。
(2)Yの反論:言論の応酬と必要な限度
一方で、Yの側もテレビ番組や週刊誌で「これはXの陰謀だ」「仕掛け人はXだ」「患者たちはXにそそのかされて虚偽を言っている」と主張しました。これらの発言は明らかにXの名誉を低下させうるもので、「陰謀」「仕掛け人」「スパイを放った」など事実無根とすれば重大な中傷といえます。
Yは「もともとXが先に名誉毀損をしたので、それに対する正当な反論である」と主張しました。一般論としても、先に相手方から名誉を害される発言があった場合、これを訂正・反撃する必要性が認められる範囲であれば、名誉毀損の違法性は阻却されうる(いわゆる「言論の応酬」として正当化されうる)とされています。
しかし裁判所は、Yの行き過ぎた表現のうち「Xがテレビ局や患者を使って陰謀を企てた」という断定的な内容は、単なる「必要最小限の反論」を超えていると判断。Xの名誉を著しく傷つける部分については違法性が阻却されず、Yにも名誉毀損が成立すると結論付けました。
4.判決の結論とその意義
(1)判決の結論
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丙事件(Y→X・Z)
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XとZによる「Yは危険で悪質」などの発言は名誉毀損にあたる。
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ただしYは高額賠償を求めたものの認容額は1人あたり600万円にとどまった(Zの分も含む)。
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なおZが「Yの患者だった」という事実認定は立証不十分であり、Zは別途乙事件での請求を棄却された。
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甲事件(X→Y)
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Yが新聞・週刊誌を通して「陰謀」「スパイ」などと公言した点のうち、正当な反論の範囲を超えた部分は名誉毀損と認定され、100万円の慰謝料が命じられた。
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一方、Yの告訴予告や「真実無根」と否定する程度の反論は「言論の応酬」として違法性阻却が認められ、賠償責任にはならないとされた。
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乙事件(Z→Y)
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ZがYの豊乳術・頬のしわ取り手術などにより後遺障害が残ったと主張するも、「本当にYが手術を行ったか」について証拠が乏しく、請求は棄却。
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(2)本判決の意義
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名誉毀損の違法性阻却要件の厳格な適用
公共性のあるテーマ(美容整形・医師の技術)でも、その発言が「専ら公益を図る目的」であり、かつ裏付けを十分にとり真実性を証明し得るか、あるいは少なくとも真実と信じるにつき合理的根拠があるかが重要であることが改めて確認されました。 -
言論の応酬における「必要な限度」の判断基準
先行発言の違法を攻撃・否定するためであれば、名誉を毀損する表現を用いてもなお違法性が認められない場合はある。しかし「陰謀」や「仕掛けられたスパイ」などの具体的事実を断定的に述べるのは、正当防衛的な反論の範囲を超える危険が高いと示されています。 -
慰謝料額の目安
本件ではY側の名誉毀損に対する600万円、X側に対する100万円が認容されています。当時の名誉毀損事件としては比較的高額ですが、被告らがテレビ番組や週刊誌という影響力の大きいメディアを用いた点を踏まえると、メディアでの発言リスクを改めて示すものといえます。 -
医療上の論争と表現の自由のせめぎ合い
「異物注入法」のように医学界でも評価が分かれ、十分な公的規制や学会の統一見解が存在しない段階では、メディア等で一方的に相手を攻撃する手法は危険であると示唆されます。学会・論文などの専門的フォーラムでの科学的検証と異なり、テレビ番組や週刊誌の報道は視聴者に強いインパクトを与え、不利益や名誉毀損リスクも膨張しやすいからです。
5.まとめと示唆
本判決から得られる示唆としては、以下の点が挙げられます。
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「公共の利害に関する事実」の発言でも、違法性阻却が認められるハードルは高い
当該テーマが社会的に重大な関心事であっても、実際の発言内容が「公益目的」に基づくかや、どの程度の証拠をもって真実・真実相当を裏付けられるかを慎重に見極める必要があります。視聴者・読者に与える誤解や当事者の名誉へのインパクトが大きいだけに、マスコミに流布する前提であれば「裏取り」が不可欠です。 -
相手から誹謗的言動を受けた場合でも「言論の応酬」には限界がある
先に名誉毀損されたからといって、自分も過激な表現で応酬すると、やはり責任を問われる危険があります。反論は必要最小限にとどめつつ、事実の誤りを冷静に指摘し訂正を求める手段をとるのが安全です。 -
医療行為や専門的な技術論争であっても、メディア発信には注意
本件は「異物注入法」という医療技術の評価が争点でしたが、医療現場にはなお多くの未解明領域があり、見解が分かれるケースは珍しくありません。こうした専門領域の是非をメディアの一方向的報道で断罪する際には、裏付け不足や個人的な敵対意識が入り込むと、名誉毀損リスクに直結しやすいことがわかります。
おわりに
東京地裁平成2年1月30日判決(判例タイムズ730号140頁)は、「名誉毀損における事実の証明」と「言論の応酬による正当な反論」の問題点を網羅的に検討しつつ、最終的には各当事者の発言のうち許される範囲と許されない範囲をきめ細かく区別した事例として参考になります。判決後、メディアがさらに発展し、インターネットやSNS上での発信が日常化した現在では、本件で示されたような「裏付けに欠ける一方的な主張を大々的に公表する危険性」や「反撃としての過剰表現への警戒」は、ますます重視されるべきです。
専門性の高い分野における言論の自由と他人の名誉との調整は、今後も課題として浮上するでしょう。その際、事実の客観的検証や必要十分な証拠の確保、公正な場での議論が欠かせないことを、本判決は示唆しています。名誉毀損においては、目的の公益性と裏付けの確実性、そして必要最小限の表現かどうかーこの三点を常に意識することこそ、表現者に課せられた責任だと言えそうです。